支部だより<同窓生登場>

このホームページは旧愛知県立第二高等女学校および愛知県立名古屋西高等学校の 同窓会組織、『名西会関東支部』により管理・運営されています。

(13)橋千惠子(名西36)

橋千惠子  2025年6月8日開催の第64回関東支部総会でご講演いただく橋千惠子(名西36回生、旧姓;及部(およべ))さんをご紹介させていただきます。

 橋さんはAstrax Imagine社(AI社)の代表取締役、
AI社は「宇宙を身近に、みんなのものに」をスローガンに、宇宙船に乗務するスペースフライトアテンダント
(宇宙CA)を募集・育成する事業に取り組んでいます。

 皆さんは、宇宙旅行に興味はありませんか? 1983年
初版の「宇宙からの帰還」立花隆著では、宇宙飛行士へのインタビューを通じて宇宙から地球を見ることによる内的体験(宇宙規模で考えると争いは無くなる?(人類皆
兄弟)、宇宙の強大さ・地球の有難さ・神の存在・人間の弱さを改めて感じる?)が語られていますが、こんな体験をしたいとは思いませんか?

(したいけど、お値段が、と考えるあなたは普通の方です)

 コロナ前にZOZO(ゾゾ)創業者の前澤友作さんが宇宙旅行をすると宣言していたのを記憶している方もおられるでしょう。結局、2021年に日本の民間人で初めて国際宇宙ステーションの滞在に成功していますが、これはお金持ちの道楽として捉えている方も多く、その後の月周回旅行計画も断念したようですね。

 一方、米国ではイーロン・マスク氏(電気自動車メーカー「テスラ」創業者)、ジェフ・ペソス氏(アマゾン創業者)のような億万長者が、宇宙旅行を夢の話ではなく現実に普通の人に手が届くビジネスモデルにしようと積極的に「投資」をしていることはあまり知られていないようですね。

 そのような状況下、コロナで少し停滞していた「宇宙旅行」への取り組みが、2024年下期に成果として出てくる気配があります。橋さんは、このような動きを察知して、これから本格的に始まろうとしている各社の宇宙船による宇宙旅行ツアーで参加の全行程においてサポートする宇宙CAの需要が高まると予想し、宇宙旅行体験をより快適で価値のあるものにする宇宙CA育成に取り組み始めたのです。

 とはいっても、まだ予約が入っているレベルで見ても数百名のレベル(宇宙旅行予約者数)ではビジネスとしてはまだ未成熟、堅実な橋さんは実業として研修事業も展開しており、日常的にはこの本業で忙しく国内各地を飛び回っていますが、そんなお忙しい橋さんに少しお時間をいただきインタビューをさせていただき本稿をまとめました。

 まずは、宇宙旅行について少しまとめておきましょう。

宇宙空間に関するJAXAの定義領域  みなさんは、地上からどのくらいの高さになると宇宙という空間にになるのかご存じですか?

 国際航空連盟(FAI)という組織が、高度100kmから上を宇宙と定義しています。なお、米国空軍は80kmから上を宇宙と定義しています。

 では、大気圏とはどこまでを言うのでしょうか。

 大気圏は対流圏、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏に分けられ、外気圏は高度500kmを超えます。

 つまり学術的には、スペースシャトルや国際宇宙ステーション(ISS)が飛行している高度400kmあたりはまだ大気圏内ということになります。


 NASAでは、スペースシャトルが地球帰還時に高度を下げてきて高度120kmに達すると大気圏再突入(Entry Interface: EI)と呼んでいます。これは、大気による機体の加熱が始まるあたりです。

 このように、地表から遙か宇宙空間まで無段階につながっているのですから、どこからが宇宙という境は明確にはないのですが、一般的には大気がほとんど無くなる100kmから先を宇宙としているようですね。

 なお、大気とは惑星に存在する気体のことで、地球の場合それは「空気」と言うことになります。そして空気の成分は高度が高くなるに従って薄くなり、高層では太陽からの紫外線等によって分解され、原子状酸素(オゾン)が増えていきます。

以上、JAXAのホームページから引用させていただきました(図を含む)。

 旅行会社のHISは品質にこだわる旅ブランドとして「QUALITA」を立ち上げていますが、「宇宙への入口への冒険旅行」として米国Space Perspectine社のスペースバルーン(Neptune)による6時間の異次元体験旅行プランを提案しています。2025年から商用飛行を開始予定で、料金は12万5千$(すなわち150円/$換算で1,875万円)とのことですが、すでに2025年分の予約は完売しているそうです。

 離陸から着水まで約6時間のフライトプランでは、宇宙船ネプチューン(乗客定員6名、乗員2名)は2時間かけて上昇し、高度100,000 フィート(約30km)の地点で2時間浮遊し、さらに2時間をかけて緩やかに降下してから船が待つ海に着水するというものです。
 星々でいっぱいの夜空を昇り、地球を見下ろし、湾曲した地平線から昇る太陽を眺め、大気の細い明るい青い線を照らします。ほぼ360度のパノラマの窓から、あらゆる方向に約450マイル(約700km)を見渡すことができます。(QUALITAホームページから引用)

スペースバルーンの運航行程図







 Astrax Imagine社では、このNeptuneでのCAサービスイメージ動画を提供しておりますのでご参考までにご覧ください。

子供時代の千恵子ちゃん茶道部  では、橋さんに自己紹介をお願いしましょう。
 宇宙との関わりをいきなりお聞きするのは少し飛躍がありますので、空との関わりから伺うことにいたします。
 なんと、空を飛ぶことに興味を覚えたのは「魔法使いサリー」にあこがれた5歳の頃だそうです。覚えておられる方も多いと思いますが、「マハリクマハリタ ヤンバラヤンヤンヤン」、「ほうきに乗ってやってきた ちょっとお茶目なお姫さま」のサリーちゃんです(右写真をクリックしてみて下さい)。
 当時はスチュワーデスという職業(現在では客室乗務員(CA))を知りませんでしたが、7歳の時ふと学校の図書室で手に取った本が「スチュワーデスになるためには」でした(*RASに助けられた出来事のひとつです)。 「ほうき」に乗って空を飛ぶという夢の乗り物が「飛行機」に変わり、「スチュワーデスになって空を飛ぶ」と決めた瞬間でした。

 ここで「*RAS」に触れておきましょう。橋さんは、これまでの人生の岐路において「*RAS」を無意識に感じることにが多かったとおっしゃっています。この「*RAS」とは、Reticular Activating Systemの略で、日本語では、網様体賦活系(もうようたいふかつけい)と言います。
 日本語も横文字もわかりにくい表現ですが、簡潔にいうと、その人がもつ関心事に対して、脳は情報を集めるのに鋭敏になる、ということなのだそうです。5−7歳の千惠子ちゃんが空を飛ぶことに関係する本ばかり目についたとか、ふと「スチュワーデスになる」という本を手にとったのもそのような背景で、その後はCAになるためには英語を身につけなければとか、ただひたすら自らの道を突き進んでいくような子供時代だったようですね。

茶道部  さて、千種区、中区で幼少時代を過ごした千惠子ちゃんは名西には自転車で15分ほどかけて通学したそうです。茶道部に所属しましたが、体操部で体を鍛えることも忘れなかったようです(本当はテニスもやりたかった??)
 前述のように、英語は熱心に取り組み高須先生にお世話になったので、支部総会でお会いするのが楽しみ!とか。
 椙山短大に進学したのは、四大より短大の方が就職率のよい時代だったことが主な理由とか。椙山では友人がCA予備校に通うのを横目に接客業のアルバイトに精を出し、レジャックのアメリカンジャズパブで接客のイロハを学んだそうです。(実利主義の千惠子さんらしい!!)
ANA CA
 全日空(ANA)に入社後は、23年間 CAとして様々なフライトを経験しましたが、中でも最も光栄だったことは、トップVIPフライト専任CAのお役目を拝命し、天皇皇后チャーターフライトや皇太子殿下、宮様など宮内庁や政界/財界トップのフライトの経験ができたことです。

 その後、三菱商事勤務の御主人と結ばれニューヨークに移り住んだ後は、3−4年の間にビジネスマナー講師の資格を取得し、帰国する際にはCA再チャレンジのチャンスはあったものの、企業研修講師の派遣業につながるお誘いもあり、現在の会社運営につながっているそうです。

 研修・派遣業に取り組んだ経緯は、東急グループの人事部との契約から始まりました。 7年間単身で伊豆高原の鉄道やホテル・宿泊業など観光業の方々を中心に、ESとCSの向上をミッションとした企画/立案/研修に取り組んだことが手始めとなりました。 その後コロナで観光業が大打撃を受ける中、伊豆高原本社から退き、様々な学びを得て、今現在は幅広く研修の委託業務を担当する会社運営に至っています。

 宇宙CAに取り組むきっかけについては、ここでは、国際宇宙ステーション(ISS)の日本の実験モジュール「きぼう」の開発及び建設に従事されたTAICHI(山崎大地)さん(株式会社ASTRAX 代表取締役)のご指導を受け、彼が主導する民間宇宙旅行ビジネスのソフト面でのサービス提供を目指してAstrax Imagine社が設立されたことだけお知らせして、詳細は支部総会の際に伺うことといたしましょう。

橋千惠子、藤田&馬場 対談の様子


 橋千惠子さん(36回生)、藤田幸代さん(28回生)、馬場重夫さん(26回生)の対談は2時間以上にも及びました。宇宙旅行の今後の見通しに関する内容を語る橋さんの熱弁には力がみなぎり、近い将来に我々自身が宇宙に出かけることを考えることができるのかもしれないなあ、と思えるようになりました。
 皆様も次回支部総会にお出かけになり、そのような希望がもてる時間をお過ごしいただければと思います。是非お出かけください。

 さらに橋さんご自身が参加された第63回支部総会において改善すべき様々なご指摘をいただくなど、我々にとっては極めて充実した対談となりました。
 お忙しい橋さんですが、今後はオブザーバー役員として時間が合えば役員会にもご参加いただきたいと、役員一同切望しております。

 追:上記写真をクリックすると、対談後の2次会における3名の写真をゲットできますよ。

(12)小笠原 宏(名西33)宇宙旅行産業の展望を語る

東京理科大正門前と6年2組の僕  第64回支部総会(2025年6月8日開催予定)のテーマは「宇宙旅行」、そこで
2010年の第52回支部総会にて「最近の宇宙開発について」というテーマで講演された東京理科大学 機械航空宇宙工学科の小笠原 宏(こう)教授(名西33回生、講演当時は三菱重工業(株)宇宙事業部副事業部長)にお話を伺いました。

 小笠原さんは、大杉小学校6年2組の時に将来の夢を「自作の光子ロケットに乗って金星にいく」としています(左写真をクリックするとその実物が見れますよ)。
 「光子ロケット」、すごいですね。これは光の速さで宇宙を飛ぶロケットで、宏少年が小学校の時に読んだSFに出てきたそうです。でも、その光子ロケットにただ乗るのではなく、「自作の」とついているのもポイントです。きっと、なんでも自分で作ってしまう少年だったのですね。

 大杉小学校から八王子中学を経て名西高校に進学した小笠原さんの先輩に、堀元支部長(16回生)、馬場支部長(26回生)がおられることに皆さんは気づいたでしょうか? 何かのご縁でつながっているのですね。

 ところで、宏君が名西高校の3年時に制作した「起震車(地震体験装置ですね)」が中日新聞昭和55年9月18日夕刊市民版で取り上げられました。

高3の時の文化祭で展示した起震車を紹介した新聞記事






 この記事、実は小笠原さんが先生の了解を得て新聞社に直接電話して売り込みをかけ、取材を受けて掲載に成功し、その記事を見たテレビ局のテレビ取材に至った(5人目にインタビューを受けているのが名古屋弁丸出しの小笠原さん(物理の先生の次の次)です。担任の紅谷先生も登場してます)のが実情のようですね。小笠原さんの行動力、実現力、ハンパないです!!


 この起震車の製作費は1万円、1週間程度で作ったそうですが、設計者は小笠原さん、廃棄物の洗濯機を探してきてモーターを回して過度の回転にならないよう慎重にギア比というか回転数制御をかけたのがポイントだそうです。

 でも、こんなことに一生懸命になっていた3年J組(担任;紅谷尚幹先生、名西22回生、名西会元会長、現在は関東支部会員)生徒40名(当時)のうち、25人(小笠原さんを含む)がもう一年勉強に励み希望校へ進学し、大手メーカー社員、銀行員、大学研究者、公務員となったそうで、この時の仲間は小笠原さん自慢の同期だそうです。
 ところで、小笠原さんが名西で取り組んだクラブ活動はハンドボールと軽音楽部(今のJ&Fは参加クラブ員数ナンバー1だそうですね!)、特に軽音楽部ではドラムス担当だったそうです。充実した高校生活を送られたのですね。

小笠原さんの略歴
第487回航空宇宙懇談会資料、「近づきつつある宇宙旅行」、2023年7月21日、小笠原 宏(東京理科大学)

2種類の宇宙旅行  1988年に京大工学部航空工学専攻修士課程を修了した小笠原さんは三菱重工に入社され、名古屋航空宇宙システム製作所を皮切りに上図のように日本の宇宙輸送系開発の殆どすべてにかかわってきました(上記写真をクリックすると、当時の小笠原さんの姿を見ることができます)。
 日本でも、米国のスペースシャトルのような宇宙往還機(HOPE、同じ機体で宇宙と地上を行き来できる乗り物)の開発を進めている時期があったのですね。この開発を有人機として実現できできなかったのが残念です。  2001年に三重大で学位を取得され、2020年に宇宙事業部技師長として技術部門のトップに立ちH3ロケットの開発に取り組み、2021年から東京理科大学理工学部機械航空宇宙工学科教授に招聘され現在に至ります。

 さて、宇宙旅行はすでに実現しており、これまで宇宙へ行ったのは500人以上にも上っています。その旅行の種類は、0.疑似宇宙体験(高度30q)、1.無重力体験型宇宙旅行(高度100q)、2.滞在型宇宙旅行(高度300-400q)に分類できますが、詳しくは、次回支部総会の橋千恵子さんの講演でお聞きすることにいたしましょう。

SLA  & インタビュー後の懇親会にて

 最近の小笠原さんは、大学教員として後進の育成という「教育」に力を入れていることはもちろんですが、「民間主導で宇宙旅客輸送のマーケットを作る」というプロジェクトの立ち上げに協力し、一般財団法人宇宙旅客推進協議会(SLA)に理事として参加し、様々な取り組みを行っています。
 詳しくは、SLAのHPをご覧いただきたいのですが、これまで基幹ロケットによる国中心の宇宙輸送の開発しか行ってこなかったことに対し、海外では(特に米国の)民間における開発活動が盛んになり飛躍的に宇宙への輸送技術開発が進んでいることに危機感を覚えた関係者が、「有人輸送の大きなマーケットの創出を民間主導で行い、宇宙活動の拡大を図ることが重要」との認識のもと、文部科学省、内閣府、経済産業省の支援を受け民間主導の体制構築や国と民間の新しい関係の構築を目指して,2021年5月にSLAを発足させたという経緯になります。

日本の宇宙ベンチャー企業 出典:「宇宙輸送システムと宇宙産業について:令和2年2月、経済産業省宇宙産業課

 わが国では、2008年宇宙基本法が制定され、2023年6月に宇宙開発戦略本部(本部長:総理大臣)にて第5次宇宙基本計画が決定され、内閣府宇宙開発戦略推進事務局のもと、経済産業省、文科省、総務省らが所管する宇宙航空研究開発機構(JAXA)を中心に宇宙開発が進められて来ました。
 国の支援は多岐に及びますが、小笠原さんは「今後は民間のスタートアップから*ユニコーンが出てこないと我が国の宇宙産業の飛躍的な発展が望めないかも」とおっしゃっています。
*ユニコーン:創業10年以内にして10億ドル以上の評価額が付けられている非上場のベンチャー企業

 インタビュアーが調べたところ、上図の「宇宙旅行」のPDエアロスペース(本社:名古屋市緑区有松)は、ジェット燃焼とロケット燃焼を1つのエンジンで切り替えて作動させる「燃焼モード切替エンジン」を開発しており、既存の空港で離発着が可能な宇宙往還機になります。こんな開発を進めているのが愛知県立瑞陵高校出身の緒川修治社長、ANA、HISが出資するなどしていますが圧倒的に資金が不足しがちで、宇宙機開発に「名を刻め!」として広く資金を募っておりますので、ぜひ皆さまもHPをご覧ください。

 このあたりの議論に移る頃には秋分の時期でしたのですでにあたりは暗くなりかけておりました。従い、続きは暑気払いで行いましたので、これ以上の報告は支部総会で小笠原さんからお聞きください。
 暑気払いの様子は上記SLAの写真をクリックするとお判りいただけるかと思いますのでご参考まで。

 なお、このようにいろいろな方とお話しし楽しい時間を過ごすことに大変ご興味があるとのことでしたので、名西会関東支部役員会はまさにそのような活動方針で活動していることをお話しし、小笠原さんには2025年1月から新規役員としてご参加いただけることになりました。
 皆様にご報告させていただくとともに、小笠原さんの今後のご協力に感謝するということでこの小文のまとめとさせていただきます。
 (2024年9月13日 インタビュアー馬場重夫(26)、藤田幸代(28)@東京理科大学野田キャンパス)

(11)新旧支部長登場!!:藤田幸代(名西28)&馬場重夫(名西26)

鼓笛隊と制服  2025年1月から支部長を引き継ぐ藤田幸代さん(28回生、旧姓;岩田)は、名古屋市西区のお生まれで浄心中学から学校群第一期生で名西高校に進学されました。自宅から歩いて通える名西高校に合格しほっとしたのをよく覚えているそうです。
小、中、高校とずっと続けていた鼓笛隊活動で最年長となった名西高校時代は名古屋まつり等にも出演し(担当:スネアドラム、写真参照)子供たちの面倒を見るなどして大変忙しく、名西では帰宅部だったそうです。(写真をクリックすると当時の名西の制服が分かりますよ!)
卒業後は創価大学法学部に進学され、八王子で人生唯一の下宿生活をされたそうです。大学ではバレーボール部に所属し名セッターとして活躍されたそうです。

ご夫婦で行った箱根
大学卒業後は、事務機メーカー(後のキャノンコピア販売)に就職し(1980年)、複写機・ワープロ等の製品を紹介するインストラクターとして中部7県に出張し、ビジネスフェアで説明員をしたりしましたが、なんといっても出張先でおいしい料理、お酒をいただくのが楽しみだったそうです。
でも、出張先で遊んでいたわけではありません。ちゃんとワープロ検定2級も持っている(ご本人曰く、今は何の役にも立たないけれど、、)とのことです。

28歳の時に職場結婚されてすぐご主人が転職され、名古屋(5年)、吹田(5年)、武蔵関(17年)と移り住み、11年前に今の終の棲家(入間市東藤沢@西武池袋線武蔵藤沢)に居を得ました。
名古屋で生まれたご長女は今は川越で幼児教育にとりくんでおられるそうです。

最近の藤田さんは、月に1回は出かけるご主人との温泉旅行(写真は先日行った箱根の一風景)、横浜ベイスターズの応援等を楽しみにしているとか。

大洋ホエールズ時代からずっと応援しているベイスターズですが、ファンクラブに入って年に5−10回程度横浜に出かける(都営副都心線で一気通貫で行ける)のは、試合後の中華街での祝勝会があるからでしょうね.

馬場家族 続いて、馬場支部長を紹介します。2016年から支部役員として参加し第59回支部総会から支部運営に関わってこられました。ワード、エクセルを駆使して議事録作成をあっという間にこなすなど事務処理能力はいつも周りを驚かせています。
ところが、細かいことは大の苦手、作成した議事録の誤字脱字は毎度のことで、全体の大枠、今後の方針等方向性に全くぶれはないのですが、反対の意味になってしまうような文字変換ミスを正すのが周りの役員の役目です。2019年のコロナ前から支部長を勤め、6年目を迎えるこの時期に支部長を退任されることになりました。
ご家族は、40歳前後の娘さんが二人にそれぞれお孫さんが二人づつで、毎年3月に行われるお誕生会では写真のようにあまりにも賑やかで、お店が困っているのではないかといつもハラハラしているとのことです。  上写真:馬場支部長ご家族(お誕生会) 下写真:水泳部員全員集合!(卒業アルバムから)
水泳部
名古屋市北区清水小、八王子中学というご出身は堀顧問・副支部長(16回生)と全く同じ、名西高校で水泳部所属というのも同じと伺っていますがこれも何かの縁なのでしょうか。
水泳部では、平泳ぎ、背泳ぎ、フリーと各種目を転戦されたそうですが、本格的に取り組んでいないバタフライを孫たちに教えてとせがまれて、最近はどうやってバタフライを教えるか鋭意検討中とのことです。
(当時の水泳部は1学年で13人(写真:卒業アルバムから)とこんなにたくさんいたのに、今は、、)
高校卒業後は、名大工学部合成化学科に進学、大学院修士課程の2年を経て当時四日市に事業所があった大協石油(株)(後のコスモ石油(株))に入社され、大学の専門分野であった触媒開発に取り組まれました。支部長がよくおっしゃっている「10年に一つくらいは子供たちに自慢できる成果を出せ」の言葉通り、20歳代で後に触媒学会学会賞(技術部門)をいただくことになる成果を挙げられたそうです。ご本人に言わせると、その後も成果を出そうとしたけれど、晩年の風力発電会社の買収に関わったことくらいしか後輩に残せる仕事はしていないなどというのはご謙遜でしょう。

現在のお住まいはさいたま市桜区@JR西浦和、武蔵浦和ですが、コスモ石油が誕生した30歳の時に関東に転勤して以降は、越谷(2年)、草加(3年)、狛江(2年)と転居した後にさいたま市にたどり着いたそうです。ただ、高校、大学の同窓・同期の奥様(名西26)は全国転勤必須の国家公務員(法務省)のため、40歳代前半から千葉、名古屋、山形、川越、宇都宮、高崎、八王子、横浜、練馬と転勤し続け(すべて単身赴任)、支部長はその間お仕事の傍ら、さいたまでお子様の弁当つくりや様々な子育てをすべて経験されたとのことです。

藤田 & 馬場 対談の様子

新旧支部長の対談というか、インタビュー会合は2時間にわたりました。

皆さん、その際明らかになった新旧支部長のモットーをこっそり教えちゃいましょう。

藤田新支部長のモットーは、「究極の楽観主義」と「桜梅桃李(おうばいとうり)」だそうです。とくに後者は「自分らしく生きる」という理念で、13世紀に書かれた『古今著聞集』に出てくる言葉です。人と較べることなく、自分らしさをしっかり見つめる新支部長を応援したくなりますね!!

馬場支部長は、「健全なキリギリスを目指す」と最近考えているそうです。いたずらに浪費するのではなく、将来におびえてひたすらため込むのでもなく、自分への投資(今更投資しても生み出すものはあまり期待できないけれど、例えばこの名西会活動でゼロからホームページを作ることを独習でしこしこ学んだのは少しは役に立ったのかもとおっしゃっていました)を少しはして、今日とは違う明日でありたいなあ、とおっしゃるのはとても70歳に近い方には思えませんでした。

対談は、いつもお世話になっているハイネスソリューションズ株式会社会議室@浅草橋ミハマビル3階で行われました。堀晴彦会長16回生、当会副支部長・顧問)、いつもお世話になりありがとうございます。
(2024年7月18日 実施)

(10)河西秀哉(名西48)

河西准教授近影
 2024年6月9日開催の第63回関東支部総会でご講演いただく
名古屋大学大学院人文学研究科 附属超域文化社会センターの
河西 秀哉 准教授(名西48回生)
をご紹介させていただきます。

河西准教授のご経歴は以下の通りです。
 1977年 名古屋市中川区に生まれる(現在46歳)
 1996年3月 名西高校卒業
 2000年3月 名古屋大学文学部卒業、大学院博士課程進学
 2005年5月 京都大学 大学文書館 助手
 2007年4月 京都大学 大学文書館 助教
 2007年6月 名古屋大学から博士号(歴史学)取得
 2011年4月 神戸女学院大学 文学部総合文化学科専任講師
 2014年4月 神戸女学院大学 文学部総合文化学科准教授
 2018年10月 名古屋大学大学院人文学研究科准教授 現在に至る

 左写真:河西准教授近影   下図:河西先生の象徴天皇制に関する主要著書

 河西先生のご専門は歴史学で、日本近現代史を中心に研究されており、主要課題は「象徴天皇制の成り立ちと現在」です。
 象徴天皇制に関する先生の著書は下図のとおり多数出版されており、これまで歴史学者として取り組む方がほとんどいなかったこともあり、最近ではテレビのインタビューを多数受けるなど注目されている研究者のお一人となっています。

 象徴天皇制に関する先生のご研究内容については支部総会当日に詳しく伺うということで、今回は概略のみ後で簡単に触れますが、まずは生い立ちとなぜこの分野に取り組むことになったか等、名西高校との関わりを含めいろいろ伺いましたので、以下ご覧ください。

河西准教授2010-2019の主な著書

  備考:本インタビューは2023年8月21日に行われました。

1988年中日優勝  名古屋市中川区生まれで、市立五反田小学校(@名古屋市中川区一色新町)、市立一色中学校で過ごした義務教育時代から歴史が好きだった河西先生、当時は歴史漫画や大河ドラマ、戦国、幕末など何でも歴史絡みのものに関わり続けていたそうです。
 また、中日ファンでもあり、1988年の優勝の際(小学校5年生の頃、星野監督時代)は優勝決定試合も見に行ったのですが、昭和天皇がちょうど倒れた折で恒例のビールかけをやらなかったのが子供心に強く印象に残ったということでした。
 さらに、89年1月に昭和天皇崩御の際は音曲禁止の状態の中、レンタルビデオ屋さんが大繁盛して、喪に服している事が公の世界ではありながら実態として家の中では楽しみを追い求めるというかギャップがあることに気づき、社会問題としてなにかしら興味を持った覚えがあるという、この辺りやはり只者ではない、将来学者として世間に物申す片鱗がうかがえる河西准教授誕生物語第一話でありました。

 注:星野監督胴上げの写真は、 「データから考える、1988年星野中日優勝の軌跡:達人に訊け!:中日新聞Web」から引用させていただきました。

 一色中学からの進学先は地理的に松陰、瑞陵高校等が多かったのですが、大学受験に向けての高校教育だけではなく、より広く学びたいと思って名西高校に進学したという河西先生、中学時代に西高祭でHIVを取り上げていた新聞記事を見て、社会的な問題を取り上げる校風も良いな、というのも進学の大きなきっかけとのことでした。
 なお、高校1年の間は近鉄伏屋(名古屋駅から五つ目)から通っていたのですが、高2の時に引っ越し、名鉄沿線からの通学になったということで名西との縁を感じますね。

西高祭マスコット  高校時代もやはり歴史が好きでした。やっぱり日本史はよくできたかな。当時は、高2で日本史も世界史も近現代史をやるカリキュラムでした。他校は2年から受験モードに入り受験科目を中心にそれ以外は切り捨てるようなモード(まさに受験一直線)になるのですが、名西は2年までは理科も社会科もとにかく全体をみわたせるように全科目をまんべんなく取り上げるという感じでした。これは今となっては、幅広い知識を持っていることにつながっていると思っており、良かったなあと感じています。

 注:左写真は、西高祭で河西先生が所属するチームのマスコット、優勝した作品だそうです!!

 受験に有利とされ超有名な「山川出版社」の日本史教科書を、名西高校では使っていませんでした。当時はなぜだろうと思っていたのですが、このようなところにも受験ぎすぎすでない、そして教員の思いが込められた名西高校らしさを感じますね。

 当時は本もたくさん読みました。現代国語の先生が一万ページの本を読めと言っていた記憶もありますよ。高校の図書室の岩波、中公などの新書は手当たり次第に読んだ記憶があります。世代の特徴なのですが、前述したように1989年の天皇崩御があり90年代に多数の天皇関係本が出ていたことも自分の人生に大きく影響しているかなと語る准教授誕生物語第2話でした。

 ところで、河西先生は名古屋大学の入試の際、自分の意見を書く「論文入試試験」がある方式の入学試験で合格されたとのことです。この論文入試、名西の教養の幅の広い教育方針が役にたった、ということで准教授誕生物語第2話の秘話でした。

コール グランチェ

 高校ではブラスバンド部に所属していた河西先生は、大学入学後は混声合唱団名古屋大学コール・グランツェ(Chor Glanze:"コール"はドイツ語で"合唱団"、"グランツェ"は"輝き")で熱心に合唱に取り組みました。後述するように"うたごえの戦後史"という著書まである先生ですが、名大教育学部(当時)の奥様との出会いもこの合唱団ということなので、やはり中途半端な活動ではなさそうです。

注:上記写真は、河西先生がコール・グランツェで歌っている時の写真です。

 ただ、大学3,4年の頃になると勉強が足りないことに気づき、このまま希望の(高校の)先生になるのはまずいと大学院に進み、2年経過して(修士課程終了時)愛知県教員試験を受けたものの見事に不合格となり、指導教官から博士課程後期課程に進むことを薦められ(3年間)、3年の間に私立高校などのチャンスもあるかも等と考えているうちにそのまま研究者として船出することになってしまった、とまことしやかに語る河西先生でありました(准教授誕生物語第3話)。

 大切なことが後回しになってしまいました。大学一年の時に講義で「象徴天皇制」のことを聞き、これがきっかけで研究者の道に進む際に自らのテーマとして取り上げることになった、ということも准教授誕生物語第3話の秘話ですが、この辺りは支部総会でご講演いただく際に詳しくうかがえると思います。

サブテーマ4冊
 その後は、関西地区を中心に大学教員としての路を進まれ研究、教育に熱心に取り組まれた河西先生ですが、その著作は「象徴天皇制」関連だけにとどまりません。神戸女学院大学では「日常を拓く知」シリーズ本(”恋する”、2014年)を刊行し、大学で学び始めた人、そしてこれから大学で学ぶすべての人に向けてメッセージを発信しています。

 "うたごえの戦後史"(2016年)も、戦時体制のなかでレクリエーションのための歌がうたわれ、合唱と民主主義の関係を"うたごえ運動"の歴史として整理し、おかあさんコーラスまで取り上げるなどその調査対象は幅広くなっています。ご自身が取り組んだ合唱活動の経験もあり、一つ一つ資料に当たり検証された内容はさすが歴史学者がまとめた一冊と感心することと思います。


 さらに、"皇后四代の歴史"(2018年)も明治天皇の后である美子(はるこ)皇后(昭憲(しょうけん)皇太后)から美智子皇后(現上皇后)まで写真をふんだんにあしらいながら、これまであまり報道されていないような話題も満載で実に興味深く読める本でした。公(表)と私(奥)をテーマにこれまでの歴史をたどることにより、令和後をどのように考えるかというテーマを考えさせる内容にもつながり、意義深い本だと思います。
 でも、皇室関係の女性の名前は漢字だけでは読めない方が多いですね。なぜなのか、先生に聞き忘れましたので講演の際にお聞きしましょう。

 大正天皇の妻である貞明(ていめい)皇后の女官として仕えた椿の局(坂東登女子(ばんどうとめこ)、1892-1980)のヒアリング記録の監修("大正女官宮中語り"、2022年)なども依頼されてとりくんだ仕事ではあるようですが、明治から令和にいたる皇室の歴史の実態解明に取り組んできた河西先生ゆえに飛び込んでくる仕事なのでしょう。

 ここでは、河西先生の本来の専門外の著作を取り上げましたが、事項ではいよいよ「象徴天皇制」に関する研究成果の概要を紹介させていただきます。


 日本国憲法第1章の第1条から第8条までは「天皇」に関する条文となっています。次の第2章第9条はいわゆる「戦争放棄」の条文なので皆さんよくご存じですね。その「戦争放棄」より重要な条文が「天皇」に関する条文となっているわけです。
 その第1条に、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とあるのもよくご存じと思いますが、「日本国の象徴」、「日本国民統合の象徴」に関しては定義づけは一切なく、「日本国民の総意」も捉えどころのないあいまいな表現になっています。僕らって、天皇に関してじっくり考えたことあったっけ??
 この「象徴天皇」という概念は、我々戦後世代にとっては空気のように生まれた時からあって疑問も何もなかったわけですが、河西先生は歴史学者として明治・大正時代から現在までの文献(新聞、雑誌報道を含む)を丹念に調べ、人々がどのように考えて現在に至っているのかを解明しようとされています。
 2008年に名古屋大学に提出された先生の博士論文のタイトル(「文化平和国家」と象徴天皇−道徳・国家・マスコミ)から一貫している先生のお考えは、先生のおっしゃっていることを我々が理解するだけではなくて、自分の頭で内容を考えで自分なりの意見を持つことが重要だと考えているのではないかと思います。先生はその考えるための知識というかデータを提供するに過ぎない、すなわち、日本人が自らのアイデンティティーを自分でつかみ取ることが重要で学者としての先生はそのお手伝いをしているだけ、と考えておられるような気がしたインタビューでした。

2023年8月21日訪問
 象徴天皇のあるべき姿を模索し続けた明仁上皇(平成の天皇)が年末に満90歳を迎え、2025年は戦後80年となります。そういったけじめの時期を踏まえ、さらにパワーアップした著作を検討されている河西先生の支部総会でのご講演を楽しみにしております。

HP掲載日:2023年9月7日
インタビュー:2023年8月21日(月)@名古屋大学文学部棟 河西研究室
インタビュアー:馬場重夫(26回生)、カサマーニ洋子(29回生)

(9)柴山良成(名西31)

柴山社長近影 第62回支部総会の開催コンセプトは、『東京2020オリンピック』の開催を踏まえ、まさしく「スポーツ」がキーワード、今回は、その支部総会で講演をお願いしている柴山良成さん(名西31回生)にご登場いただきます。

柴山社長は、名西卒業後、拓殖大学商学部に進み、1984年(昭和59年)同校を卒業後は大和団地株式会社に入社し、その後は、大和ハウス工業(株)執行役員 営業本部マンション事業推進部長を経て、2009年(平成21年)日本体育館施設運営(株)(翌年、スポーツクラブNAS(株)に商号変更)代表取締役社長に就任され、現在は、以下の会社のトップとして、多忙な毎日を過ごされています。

 スポーツクラブNAS株式会社 代表取締役社長
 (兼)大和リゾート株式会社 代表取締役社長
  〃 ダイワロイヤルゴルフ株式会社 代表取締役社長
  〃 ダイワロイヤルホテルシティ株式会社 代表取締役社長

大和ハウスグループのエンターテインメントの総帥といっても過言ではないですね。

写真:柴山社長近影
@スポーツクラブNAS株式会社本社
(江東区有明、有明セントラルタワー10F)

小学生の柴山さん 中学までは稲沢市在住の柴山さん、稲沢市立清水小学校時代はリトルリーグに所属し、中学も稲沢市立明治中学(稲沢市片原一色町)で引き続き野球部(軟式)に所属し野球漬けの毎日を送り、高校に入ったら甲子園を目指すつもりでした。
名西高校に入学が決まり、「さあ、初めて取り組む硬式野球でも自分の力でチームを甲子園に連れて行くぞ!」と意気込んでいたのが入学式前に名西には野球部がないことを知りびっくり! 目の前が真っ暗になりとうとう入学式には出席しませんでした。

写真:小学校の遠足時。下の方でこちらを向いている一番「カワイイ」男の子が柴山さん

柔道部@名西高校 高校入学直後は野球部がないことで自暴自棄になっていたのですが、クラブ活動は柔道部に入り(174p、60kgという体型が幸いした?)、6月で16歳になったことを受け8月には黒帯を締めていました(初段合格、当時は段位は16歳以上という規定有)。2段を受験できるのは18歳からと2年後になる(当時)ので目標を失いぼんやりしていたら、伊神先生(当時のラグビー部顧問)から誘われて柔道部在籍のままラグビー部にも参加し、ナンバーエイトとして試合にも出て結構楽しくやっていました。しかしながら、両部掛け持ちが問題になるなど当時はいろいろありました。
   写真:柔道部員集合!@名西高校
        手前一番左が柴山さん

西高祭マスコット 修学旅行での跳び蹴り
    <修学旅行での跳び蹴り!!>        <西高祭のマスコット(シンドバット!!)>

中3まではクラス一番が当たり前ということが自慢でしたが、名西ではほとんどやる気をなくした高校生活を送ったこともあり成績は急降下、でも、子供の頃から人のまねをすることが嫌いな性格は高校時代にどんどん強化されていって、毎年秋開催で恒例の西高祭ではマスコットづくりに励んだり、修学旅行では手前からダッシュしてただ跳んだだけなのですが、このような雄姿を見せる面もありました(どうやって飛んだの?!)。

卒業後は晴れある代々木一回生として1年過ごしましたが、たまたま縁があった拓殖大学に進学し東京での生活を始めることになりました。

サーフィン@拓殖大学 大学時代も、やっぱりスポーツ中心になりました。

夏は湘南、伊良湖でのサーフィン、冬は白山、ダイナランド(大日岳)に出かけスノボでしたね。

その一方で、実はアルバイトにも精を出していました。

最初は自分が工事現場での作業を請け負っていただけだったのですが、当時は超人出不足、必要な人員が揃わず工事が予定通り進まないなど日常茶飯事、その都度、友人を呼び集めてやり繰りしていました。

スノボ@拓殖大学 そのうち各工事現場に必要な人数のみならず天候を予想したりしてある程度の人数をプールして登録しておき、必要な現場に派遣するなどいわゆる「派遣業」のようなビジネスに発展していったのです。相手先は防衛庁やゼネコン等、何でもありで、遠方にまで派遣する話はいくらでもありました。

このようにアルバイトの枠に収まらない程に事業が拡大し、ほとんど「手配師」として活躍するなど、関東ではその名を知らぬものはいないまでにビジネスを手広く行っていました。

この辺の事情については、公開をはばかる内容もあるので講演の際にお話しさせていただきます。でも、内緒の話が多いのでどこまでお話しできるか。。。

学生時代のビジネスが大きく発展しても所詮は学生、卒業後の進路をどのように考えようか思案し始める時期が到来したときに人材派遣業が法の網にかかることになり、アルバイトを正業にすることをあきらめました。しかしながら、縁を繋いでくれる方もおり、後に大和ハウス工業と合併する大和団地に入社し現在に至っています。

オーケストライベント@ダイワハウスグループでの指揮者姿 大和ハウスグループに入社して以来、営業中心にいろいろな仕事に取り組みました。

仕事を進めるうえで常に心掛けたのが、子供の頃からずっと変わっていない
「人と同じことはやらない」
というオリジナルスピリット。上司から言われたことだけをやるのではなく、常に前を向いてやるべきことを自分で考えて進めてきました。

写真:大和ハウスのオーケストライベントにて指揮棒を操る柴山さん

スポーツクラブNASを任されて11年が経過しますが、その間に店舗拡大を積極的に進めで参りました。
また、地元である稲沢市ではエリアの法人企業を中心に地道な飛び込み営業を行うことで、多くの方にご入会いただくことができました。今では、地域のスポーツクラブとして溶け込んでいるため、皆様の健康にお役立ていただいているのではないかと思っております。
その後、リゾートホテルやゴルフ場等も任されることになり、リスク管理を行いながら規模拡大を進めることで、大きなビジネス規模を担当させていただいております。

2020年6月に皆様にお会いできなくなってしまったことはとても残念ですが、2021年6月13日(日)に開催が予定されている第62回名西会関東支部総会でぜひ皆様にお会いしてスポーツをキーワードとした私のこれまでのドタバタ話をお聞きいただければ嬉しく思っております。

HP掲載日:2020年4月16日
インタビュー:2020年2月12日(水)@スポーツクラブNAS本部(東京都江東区有明)
インタビュアー:馬場重夫(26回生)
  インタビュアーの独り言:現在の柴山さんからは、小学校、高校、大学の頃の姿は想像できませんね。
            支部総会当日、たくさん集まる同期の方々のご意見を伺いたいと思っています。


(8)杉浦(旧姓上野)由美子(名西22)

杉浦(上野)先生(22回生)  22回生 杉浦(旧姓上野)由美子さんの登場です!!

 現在も元気いっぱいの杉浦さんは、名西の卒業生であることに加え、
高校教師1年生としての赴任高(担当:保健体育)が名西で、
62回支部総会講師の柴山さん(31回生)の世代が高3の時の3B担任
として在籍中は、陸上部、女子バスケ部の顧問をしておられました。

 そこで、この欄では「上野先生」として紹介させていただきます。

 上野先生は、昭和26年北九州市八幡生まれでお父様の転勤で小学校1年から名古屋市千種区在住となり、東山小、城山中学校へと進学されました。

 城山中学1年の時に陸上部顧問だった加藤豊士先生の手ほどきを受け、加藤先生が名西高校に転勤されたのち、お誘いを受ける形で上野先生も名西高校に進学されることになったそうです。
 名西での3年間ずっと加藤先生が担任だったというのも何かの縁ですね。

    写真:杉浦(旧姓上野)由美子さん 近影(2020年2月22日)

走り幅跳び(高校総体北支部予選会@高2
 中学の頃からその名を知られたアスリートである上野先生の名西高校陸上部在籍時は、2年上の坂倉さん(20回生、現関東支部副支部長)ら諸先輩から「金太郎」と呼ばれ、みんなの人気者だったようです。
 写真の時ではないのですが、東海大会100m決勝では7人中7位となり惜しくも全国大会出場を逃した(6位までがほぼ全国に行けた時代)のが当時は残念で仕方がなかったけれど、今ではそれも「懐かしいかけがえのない思い出」としてさわやかに語られる上野先生は、「金太郎」ではなく名西のセーラー服が似合う少女のようでした。

  写真:高校総体北支部予選会@高校2年

 名西卒業後は、東京女子体育大学体育学部に進学し、教員免許取得後は愛知県教員となり名西高校に着任されるわけですが、その後の教員歴(担当学科:保健体育)は以下の通りです。
  昭和 49年(1974年)〜 5年間:名古屋西 高校 バスケットボール、陸上部顧問
   同 54年(1979年)〜 4年間:南陽 高校   陸上部顧問
   同 58年(1983年)〜18年間:愛知商業 高校 新体操、ダンス、バドミントン、テニス部顧問
  平成 13年(2001年)〜11年間:熱田 高校   陸上部、テニス部、軟式テニス部顧問
   同 25年(2013年)〜(再任用):名古屋南高校(1年)、昭和高校(1年)、
                   南陽高校(2年)、中川商業高校(1年)
  平成30年(2018年):完全退職

 完全退職後は、ゴルフ、映画鑑賞など楽しまれている上野先生@名古屋市在住ですが、年に何度かは上京され、写真のように加藤先生(茨城県在住)、坂倉副支部長らと歓談されたり、関東地区ゴルフ場でもナイスショットを連発するなど坂倉さんを負かすほどの腕前だそうです。
 2020年6月の支部総会にご出席を快諾されていたお二人ですが、ぜひ2021年6月開催予定の第62回支部総会にご参加いただき、教え子である我々との再会を果たしたく期待しましょう!!。

上野先生と加藤先生            写真:加藤豊士先生とのツーショット
            (修学旅行の際の姫路城@高校2年)

わいわい    写真:3人で懇談(2020年2月22日@都内某所)
     加藤先生、上野先生、坂倉さん(副支部長、20回生)


(7)堀 酉基(名西42回生)(2)

前回に引き続き、堀 酉基(ゆうき)さん(名西42回生)さんにご登場いただきます。
堀さんには、2019年6月9日(日)開催予定の第61回関東支部総会にてご講演いただきます。

掘 酉基さんと対談する高木君(67回生) 写真:対談の様子@株式会社文京楽器本社ビル二階の工房前会議スペースにて
   (右:堀さん(H)、左;高木君(T))
 注:後ろの机が曲がっているのはパノラマモード撮影のためで、展示机はまっすぐです。

高校3年の時の西高祭 高木(以下T):堀さん、こんにちは。今日はインタビュアーを務めさせていただきます。よろしくお願いいたします。僕は、4歳くらいからピアノや音楽に関わり、ディズニーの三匹の子豚という映画を見てバイオリンを習いたいと自らが希望して習い始め、今でもそれに関わる仕事に就きたいと音楽大学に通っていますが、堀さんが今のお仕事に就かれた経緯を教えてください。

堀(以下H):高木君は音楽家を目指しているわけだけど、名西高校という普通科出身というのがとてもいいと思います。演奏一筋というのはいかにも良さそうだけど、いろいろな世界を知っているというのも重要ですね。演奏だけでなく教育者という道もあるし、僕もいろいろな方と知り合いですが、紆余曲折あったにしても、自分の信じる道を進んでいく方はみな素晴らしい人生を歩んでいると思います。
 さて、私のお話ですが、両親が中小企業の経営者で、小中学生の頃は音楽とは全く無縁の生活を送っているごく普通の子供でしたね。あえて言えば美術的なことには関心はあったかな。名西高校の近くに住んでいたので、ごく自然に卒業生になったという感じです。在学当時は、今回の支部総会でお会いできる水野一成先生(社会科、1年次担任)には大変お世話になったので、6月にお会いできるのを楽しみにしています。

  写真:高校3年の時の西高祭にて、後列左から3人目が堀さん(白シャツ一人目)

(H):大学進学についてもあまり真剣に考えてなくて、なんとなく東京にある文系の大学に入ったという感じでした。就職先を決めることになってさあ大変、時はバブル崩壊後の真っただ中、大企業などはコネか何かないととても入れない。ある時、中小企業の説明会に出かけたら、文京楽器というバイオリンを専門に扱う会社が出展していて、なぜか「好きになるかもしれない」と興味を持ち、営業マンとして入社したのです。

(T):なぜバイオリンだったのでしょうか?
(H):バイオリン専門学校出身の方もたくさんいる会社なので、専門用語も何もわからず、入ってからは苦労しました。でも、なぜかその時も「好きになるかもしれない」と思ったのはよく覚えています。初めの1年は営業担当で苦労の連続でした。その後、少しは軌道に乗ってきたころ、小田原の工房に空きができて、新プロジェクトが始まることになったんです。そこで工房管理の仕事を担当することになりました。仕事は議事録作成やマニュアル整備等の新人が担当する業務の他、工具一つ使えないのに技術も担当することになり、「好きなことを仕事にする」ことを甘く見ていたと痛感した瞬間でした。しばらくして、新プロジェクトを担当していたマネージャーが辞めることになりました。私は口が悪く文句ばかり言っていて、プロジェクト自体の中止を上司に進言したら「じゃあ、君が行け」といわれてびっくり。経緯もいろいろあったのだけれど、最後には「ぜひやらせてください」と自分から言っていました。
今思えば、いつの間にか「自発性をもってやる」、という視点が加わり、自分の中で、これこそ男が一生をかけられる仕事、ということに変わっていった気がします。自分がそう思うように仕掛けた周り(現在の会長さんや他の経営者?)の影響も大きかったかもしれませんが。

修業時代@1999年 (T):周りの方々が堀さんの実力に期待していたということですね。
(H):そんなことは全くないのですが、とにかく技術的なことは小田原時代にすべて自分で手掛け、徹底的に学びました。30代半ばになってマネージャー職になった頃、東京の本社に戻され、お店全体の業務に関わることになりました。海外からの材料の仕入れ、バイオリン本体の販売にも関わりました。海外との取り引きの必要上、当然ながら英語をはじめとする語学にも真剣に向き合いましたね。
(T):今は世界中を飛び回っている堀社長ですよね。

 写真:1999年修行時代 イタリア・クレモナの工房を訪ねて

(T):バイオリンについて堀さんのお考えをお聞かせください
(H):バイオリンほど長く同じ形で残っている楽器は他にはないと思います。単純な造りがとても良いのです。形、美術的要素、構造に最初は興味を持ちましたが、バイオリンは機能美、材質、素材等の化学的要素もとても重要で、単純な造りの中に、これらの要素を追及することができる楽器は他にはないと思っています。
(T):つまりそこにやりがいがあるということですね。僕は弾くだけだけど。
 (この後、いろいろ二人の議論は盛り上がったのですが、この辺りは支部総会当日、素人にわかりやすくご講演いただくということでここでは割愛します)

掘さんと高木君 (H):今、手元にある楽器をご紹介しましょう。
写真で、僕が持っているのが
 ヴィンチェンツォ・ルジェリ作バイオリン、1690年クレモナ製
で、高木君が持っているのが
 ピエトロ・ガルネリ作バイオリン、1740年ベニス製
になります。両方で数億円の市場価値があります。
 高木君はこれらの楽器を演奏して自らの音色に聞きほれているので、インタビューはしばし中断となりました。

(H):こういった楽器が今手元にあるのは、世界のバイオリンディーラーたちが、名器を順番に手元に置き、演奏家やコレクターに紹介して売買を行うという商習慣が業界で一般的だからです。
このような一級品が手元にある日もあるし、今日だから特別なものがあるというわけでもなく、1年の中の普通の一日にすぎません。
(T)今日こうしたインタビューをさせてもらって、ヴィンチェンツォ・ルジェリやピエトロ・ガルネリを演奏できるなんで幸せの極致でした。

(T)最後に堀さんの日常についてもお聞かせください。
(H)特別なことなどないですよ。経営者としての仕事だけでなく、修理、制作にも目を配っており、様々な業務的指示を出すのが日常です。また、毎月のように海外バイヤーや演奏家のところに出かけますので、体調管理は大変です。でも、いろいろな方との懇談会は仕事よりも優先する方ですし、名西高校の友達をはじめとする業務関係以外の方々との飲み会にも進んで参加するようにしています。
(T)今度、ご一緒させてください。
(H)いいですね。ぜひやりましょう。
というわけで、書記を担当したShigba2も加わり、某日、都内某所にて3人の懇談会開催も行いましたが、その際の写真はさておき(撮影を忘れました)、3月末の支部役員会に飛び入りオブザーバー参加された後の(会費制)懇親会秘蔵映像がありますのでご紹介しましょう。

わいわい










堀さんは、左から
 4人目









第61回支部総会では、本日のインタビュー内容に加えてより興味深いお話を伺えると思います。みなさま、ぜひ楽しみにいたしましょう!!

インタビュー:2018年12月12日@文京楽器本社
インタビュアー:高木彬矢(67回生)
書記:馬場重夫(26回生、Shigba2)


(6)堀 酉基(名西42回生)(1)

掘 酉基 「同窓生登場」第6回目は、次回支部総会(2019年6月9日(日)開催予定)でご講演いただく堀 酉基(ゆうき)さん(名西42回生)株式会社文京楽器代表取締役社長の登場です。
堀さんの講演では、バイオリンを中心とした楽器にまつわる様々なエピソードを伺い、当日は弦楽四重奏の生演奏もご披露いただけるかもしれません!!
今回の同窓生登場では、堀さんのプロフィールのみお知らせし、後日、独占インタビュー(インタビュアーはご存知高木彬矢君(67回生、東京音楽大学学生))の結果を掲載しますのでご期待ください。

<堀 酉基さんのプロフィール:文京楽器HPより掲載>
〇日本大学法学部卒。
〇1995年文京楽器製造株式会社に入社し製作分野で要職を歴任。
〇1998年には名器の再現プロジェクトの責任者に抜擢され、ストラディバリをはじめとする膨大な数の名器を研究する。
〇2010年より役員としてグループ全体の統括を任されるとともに、国際バイオリン・ディーラーとしての研鑽を積む。製作家としても、欧米の著名ディーラーからも製作受注を果たすなど最大級の評価を受けている。
〇2016年9月グループ三社の代表取締役社長に就任。
                               堀 酉基さん(出所:文京楽器HP
 (2018年12月25日記)


(5)北村しょう子(名西59回生)

北村しょう子近況 「同窓生登場」第5回目は、北村しょう子さん(名西59回生)@音楽座ミュージカル俳優/プロデューサーの登場です。北村さんには、第60回支部総会@2018年6月10日でも美声をご披露いただきましたので、出席された方はすでにご存知ですね。

<北村しょう子さんのプロフィール>
愛知県海部郡出身。
小学5年生のときに名古屋の劇団ひまわりに入団し、『赤毛のアン』主役・アン役、『星の王子様』キツネ役などで出演するかたわら、NHKの『中学生日記』にもレギュラー出演した。

名古屋西高校(59回生)卒業後、池袋にある舞台芸術学院ミュージカル部本科に入学。
2009年8月より音楽座ミュージカルに参加。
現在は、ミュージカル公演に参加することに加え、企業・学校での研修事業にも参加し忙しい毎日を過ごしている。

音楽座ミュージカルに興味を持たれた方は、音楽座メイト(音楽座ミュージカルファンクラブ)に登録して見に行きませんか?
                             (写真は、最近の北村祥子さん)

中3バレエ発表会 皆さんこんにちは、北村しょう子です。
私は、幼少時代のおままごと好きが高じ、母に勧められたこともあり、小学校で児童劇団に入りました。
勉強やスポーツ以上に何かを演じるということにはまり、そこから高校3年生まで劇団漬けの日々を過ごしていました。
中学でも劇団を優先させるべく文化部に所属。写真左と写真下は、中3の頃のバレエ発表会です。

オズの魔法使い/ライオン

名西体操部 西高祭にて
  <体操部の仲間と:右から二人目が私>      <西高祭にて:左側から二人目が私>

名西高校を進路に選択したのも演劇部が強いと聞いたことと、自由な校風だったからです。自由ということは自分の個性を活かして、やりたいことに没頭できると考えました。
しかし入学後、部活見学時に体操部に心惹かれ、演劇部目当てで入学したのに関わらず、体操部に入部しました。それも将来ミュージカルをやる上でアクロバットができると役立つと思ったから です。
有り難いことに、体操部での経験が今劇団でものすごく役立っています。
在学中の体操部の顧問の先生は泉先生でした。この春で名西を離れてしまったとお聞きしていますが、昨年伺った際は、お変わりなくお元気で、体操部員の皆様も一生懸命部活に励まれており、とても嬉しかったです。
これから先も体操部が繁栄し続けていくことを願っています。今改めて思い返すと、高校時代はとにかく部活に明け暮れた思い出がたくさんです。まさに青春時代だったと言えます。

3歳の時の縄跳び 高校卒業後はミュージカルの専門学校に入学し、本格的に ミュージカルを学びました。専門学校時代は、ミュージカルに限らずストレートプレイやさまざまな団体の作品を幾つも観劇し、毎日レッスンにも明け暮れました。
そして専門学校卒業後、念願だった音楽座ミュージカルに入団。
音楽座ミュージカルはオリジナルの作品を作り続けているカンパニーです。
作品創造の方法も一般的な演出家の支持に従って演じるというものではなく、ワームホールプロジェクトという手法をとり、良い作品とつくるという目的に向かい皆がフラットにやり取りを行います。そこには年齢も経歴もありません。個々が主体的に稽古に参加することが求められます。
そんな刺激的なカンパニーに所属し、今年で約10年になります。

音楽座ミュージカルポーズ 舞台に立つと、自分というものが全て露になります。隠すことも繕うこともできません。だからこそ日常の生き方が日々問われます。まだまだ未熟な私ですが、日々葛藤しながら前に進んでいます。
ぜひ、関東支部の皆様にも音楽座ミュージカルを一度ご覧いただきたいです。ミュージカルを観たこと無い方も、ミュージカル好きだけど音楽座ミュージカルは観たことが無いという方も、ぜひぜひご覧いただきたいです。
私も名西高校の卒業生として恥じぬよう精進してまいります。
最後になりましたが、私の高校時代は部活動も劇団での活動も積極的に参加し、一週間をフル稼働していました。
それも柔軟な名西の校風のおかげだと思っています。
高校時代に経験したことは今何かを演じるときにとても助けになっています。
後輩の皆様も一度しかない高校時代、将来に繋がるとても大切な時期だと思います。
積極的に目の前のものにトライし実り多い高校時代にぜひしていただきたいと思っています。

   2018年9月記

 音楽座ミュージカル 北村しょう子
 TEL: 042-722-3385 FAX: 042-722-7323
 E-mail: kitamura_s@ongakuza-musical.com
 URL: http://www.ongakuza-musical.com/


(4)加藤昭雄(名西16回生)

私の履歴書2018年3月7日 私の同期で水泳部の仲間、受験勉強もプールサイドで陽を浴びながら一緒にやった、裸のつき合いで共に青春時代を過ごした親友の加藤昭雄君のことを紹介させて頂きます。

今月(2018年3月)の日本経済新聞「私の履歴書」は著名な宗教学者の山折哲雄氏が来し方を書かれており、大学の大先輩でもある氏の若かりし頃の話題を興味深く読んでおりました。大戦の戦禍を遁れ、親の実家である花巻のお寺に引き揚げ移住していた中学生時代、後5日で終戦となる8月の暑い昼下がり、米軍戦闘機グラマンと爆撃機カーチス22機が編隊を組んで花巻市街を襲ってきました。東北の一地方都市に米軍が1時間に及ぶ猛爆を行った目的は、岩手沿岸部に位置する釜石製鉄所を破壊することでしたが、内陸部の花巻はその帰りがけの駄賃に襲われ、60名をこえる死者とともに市中心部が灰燼に帰し、宮沢賢治の生家も焼失しました。この記憶を辿るのに氏は、一冊の本を文中で紹介しておりましたが、それは以前私がその著者から直接手渡された本の題名でした。文中、山折哲雄氏はこう紹介しております。
・・・これらの事実を地道に調査して1冊の本にまとめたのが加藤昭雄氏の『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、盛岡市、1999年)である。その帯には、「宮沢賢治の生家は焼失し高村光太郎は炎の中を逃げ惑った」とあり、貴重な証言に満ちている。・・・(日本経済新聞2018年3月7日朝刊「私の履歴書」より一部抜粋)

加藤昭雄著書 これを目にして私は「おおっ!」と思わず声を上げました。我が親友の労苦が報われたぞ、とそう思いました。

彼は現役で京都大学工学部に進学、数理工学を修め当時最先端であったコンピューターの世界に進むと思いきや、在学中に研修でIBMの現場に身を置き、何を感じたのか人生の進路を突然変更、数学教師の道を選択し、東北地方の教員採用試験を受けたのです。

岩手県を選択した彼は卒業と同時に陸前高田市にある公立高校教員の職に就きます(1968-2005年岩手県立高等学校教員。1987-1990年岩手県高等学校教職員組合書記長等)。今から50年前のことです。その後花巻市に居を構え、退職後は戦争の惨禍を自らの足でつぶさに調査し続け(現在、岩手・戦争を記録する会事務局長、行政書士)、数々の著作を世に出し続けています。限られた部数の刊行で一般書店では入手困難ですが、ネットでは彼の作品を購入することも可能です。

以下、年代順に記載しておきます。

新潟での合宿風景 「花巻が燃えた日」1999年8月刊、「あなたの町で戦争があった―岩手の空襲・艦砲射撃」2003年4月刊、「岩手の戦争遺跡をあるく」2006年5月刊、「B29墜落の謎と東北空襲」2008年3月刊、「岩手に残る青い目の人形」2009年6月刊、「絵本 花巻がもえた日」2014年9月刊、「和賀の十五年戦争」2015年8月刊

写真:水泳部同期の仲間で52年振りの合宿@上越市にある仲間友人の屋敷にて(2017年7月)
写真左から2人目が加藤昭雄氏
(文責:堀 晴彦(名西16回生、関東支部支部長))


(3)金森喜久男(名西19回生)

金森喜久雄(19) 「同窓生登場」第3回目は、金森喜久男さん(名西19回生)さんの登場です。

金森さんには、2018年6月10日(日)開催予定の第60回関東支部総会にて講演いただきます。
講演タイトル(仮題)は、「スポーツの力とスポーツの主役・・・サッカーロシアワールドカップ2018/東京オリンピック2020を楽しんでいただくために」を予定しています。

金森さんは、現在は追手門学院大学(@大阪府茨木市)経営学部教授・学長補佐としてご活躍中ですが、2008年から2012年までガンバ大阪の代表取締役社長としてガンバの発展につくされ、Jリーグ実行委員、アジアサッカー連盟プロクラブコミッティ委員、委員長も務められておられました。川淵 三郎さん(Jリーグ初代チェアマン)を師と仰いでおられるそうです。世界のサッカー界の動きなども、支部総会ではお伺いできるのではないかと思います。

(写真は、最近の金森喜久男さん@追手門学院大学キャンパスにて)

吹田サッカースタジアム 皆さん、ご存じですか? ガンバ大阪のホームスタジアム、吹田市立吹田サッカースタジアム、万博記念公園にあるんです。4万人収容の立派なこのスタジアムの誕生秘話、これも今回の支部総会の講演時にたっぷりお聞きできると思いますが、ちょっとだけお教えしましょう。

このスタジアム、完成後の2015年秋に吹田市に寄贈され市立スタジアムになっていますが、建設資金140億円余りに吹田市の税金は一銭も使われていません。なんと、募金活動によって得た資金で建設されたのです。

その募金活動の主体となったのが、『スタジアム建設募金団体』、この団体はすでにその役目を終えたため解散していますが、この団体の代表理事だったのが金森喜久男さんなのです。「関西3県のスタジアムの有機的つながりを生かした国際大会の開催」、「心のよりどころ」となるスタジアムによる関西の発展、「顧客の創造」などキーワードがいくつかあるのですが、詳しくは支部総会で・・・

富山大学 金森さんは、名西当時は理化クラブの部長、数学大好き人間だったのが、なぜか大学は経済学部へ、富山大学卒業後は松下電器産業(株)に入社し、同社北陸支店長や幾つかの松下分社の常務取締役を経て、松下本社:情報セキュリティ本部長などを歴任され「世界の松下」の面目躍如、世界中のセキュリティー関係業務を統括する役目だったとの事です。

ガンバ大阪社長の頃は、ワールドカップ南アフリカ大会にも出かけました。その際の写真は選手と一緒に写っていることもありご紹介できませんが、そのかわり、Youtubeの動画サイトを紹介します。2010年のカメルーン戦の本田の先制ゴールに岡田監督のガッツポーズ、デンマーク戦の本田、遠藤のフリーキックも全部見れます。2010年の感動が『タマシイレボリューション』♪Superflyとともに甦ります。

以下は金森さんのWC南アフリカ大会に関するコメントです。
「大会前は親善試合に勝てず酷評され岡田監督退任要求がメディアから出されていた日本代表チームでした。予選トーナメント、初戦カメルーンに1対0で勝利、ここでメディアの論評が褒め言葉に変化、デンマークとの第2戦、本田、遠藤両選手の見事なフリーキックで3対0と勝利、ガラッと岡田監督を称賛しだしたのです。移動飛行場で待ち構えるメディア陣に対し一言も話さない岡田監督の憮然とした表情を思い出します。」

金森喜久雄 現在は、大学で教鞭をとられている金森さん、学生の就職の世話にも余念がない。

パナソニック在籍時からビジネスの基本を、「顧客目線で考える」に置いている。
サッカーの話題のみならず、経営学こぼれ話など、支部総会講演はかなり楽しいお話がうかがえそうです。
皆さん、楽しみにいたしましょう!!

ちなみに、サッカーは当然ながらガンバ大阪ファンですが、野球は、阪神ファンではなくドラゴンズファン??

「家族が阪神ファンで家族の笑顔を観る為に私も阪神ファンになりました。名古屋の皆さんすいません。」

だそうです。

2018年1月記 浦和レッズファン@浦和在住


(2)武田佳泉(名西60回生)

武田佳泉(60) 「同窓生登場」第2回目は名西の誇る三味線奏者武田佳泉(かなみ)さん(名西60回生)にご登場いただきます。

武田さんは、2008年に名西を卒業し国立音楽大学に進み在学中に女子大生三味線デユオ「輝&輝」を白藤(しらふじ)ひかりさん(兵庫県出身)と結成、卒業後もプロ三味線奏者としてご活躍中です。名西会関東支部総会でも何度もご主演いただきました。

まずは、既に18万回も閲覧されているこのサイトで武田さんの三味線を聞いてみてください。

お会いしてみると、こんなに華奢であどけなくてかわいい女性がどうしてこのような力強い音を津軽三味線から出せるのだろう、と思ってしまうほど音楽と向き合う時間/空間との差異を感じました。みなさまにも佳泉さんの素顔をお伝えできればと思います!!

原点回帰 写真は、2016年に開催された「輝&輝コンサート 原点回輝」の一コマです。

武田さんの三味線については毎月アップされている以下の動画もぜひご覧ください。○きき折々○です。

(1)4月 輝&輝:桜
(2)5月 武田節:カルタ
(3)6月 雨音:梅雨/日本語バージョン
(4)6月 雨音:梅雨/英語バージョン
(5)7月 道化:お面
(6)8月 花火
(7)9月 津軽じょんがら節

また、武田さんの輝かしい各種受賞歴などはこのサイトをご覧ください。

2017年9月 (以下は、武田さんの原稿です)

みなさん、こんにちは。武田佳泉です。
名西を卒業してまもなく10年経ちますが、その間ずっと関東地区で過ごしてきました。支部総会でも3回演奏させていただきましたが、最近は全国大会に参加する時期と重なりなかなか参加できないでいます。
皆様にお会いできず残念に思っております。
私と三味線との出会いは、中学校で生涯の師となる神谷茂良先生と出会ったことに始まります。
稲沢市立明治中学に神谷先生が来てくださり三味線演奏に触れ、すぐさま弟子入りを志願しました。写真はその頃の演奏会の写真です。
その後、名西高校進学以降も先生の指導を受けておりましたが、名西高校在学中は三味線部創設などにもご助力いただきました。
三味線部の後輩たちが現在も全国大会出場など、精力的な活動を続けているのを聞き大変力強く思っております。

後輩たちの活躍を励みに私も頑張ります。みんな、がんばれーーー!!

名西での3年間は、ずっと金子章生(英語)先生に担任としてお世話になりました。今はどうしておられるでしょうか?

国立音楽大学進学後、本格的にに音楽に取り組みました。
音楽学部で「音楽」について様々なことを学びました。
じっくり取り組むことの大切さを学んだような気がしています。
様々な国の音楽を知り、ジャンルによって音楽の捉え方が違うことに驚きました。そこから今の曲作りの参考なっていることもたくさんあります。
在学中に、白藤ひかりさん(当時駒澤大学)と「輝&輝」を結成し依頼を受ければ全国どこでも出かけ演奏活動を行いました。写真は。国立音楽大学芸術祭(2008年)での演奏シーンです。初期の頃の輝&輝は最初はお客様が集まらず結構苦労したんですよ。。。

もう一枚の写真は、第4回全日本津軽三味線競技会名古屋大会@名古屋(2010年)でデュオの部優勝の一コマ、この時を含め2008年の輝&輝結成時の初優勝以来これまで6回優勝に輝くことができました。
最近では、毎年10回程度のコンサートを開催し、三味線の魅力を多くの方に知っていただこうと活動しております。

今年は、輝&輝の結成10周年の節目の年、名古屋、兵庫、東京で10周年記念コンサートを開催します。

○名古屋公演 2017年12月3日(日) 緑文化小劇場
○兵庫公演 2018年1月27日(土) みつなかホール
○東京公演 2018年3月4日(日) ムーブ町屋

ぜひ、みなさんお誘いあわせの上お出かけください

まだまだ駆け出しの私たちですが、中学の頃初めて聞いた三味線に取りつかれ10年以上が経過し、コンサート活動に身を入れて、少しでも多くの方々に三味線の素晴らしさをお伝えしようと頑張ってきました。
私の夢は、「1000人以上入る大きなコンサート会場でお客様を一杯にしたい」、ということ、たくさんのお客様に大きな感動を与えることができれば、と思っています。

まだ三味線を聞いたことがない方も私たちがいろいろ手掛けているコンサートにぜひお出かけください。
また、関東支部総会でも演奏させていただく機会があればと思っております。
公式ホームページや、ブログもお時間のある時に見てくださいね。

最後になりますが、三味線部で頑張っている後輩を含め、名西高校の後輩たちにも夢をしっかり持ってその夢に向かってしっかり頑張っていってほしいと思います。

 2017年10月  武田佳泉


(1)堀 晴彦(名西16回生)

堀 晴彦(16) 同窓生登場のコーナー発足にあたり、最初のゲストは、名西会関東支部支部長の堀 晴彦さん(名西16回生)にご登場いただきます。

堀さんは、東北大学工学部建築学科(建築は工学のみならずアート的要素も含む等あり「建築工学科」ではなく「建築学科」と称しているこだわりが良いですね)卒で兼松江商(株)(現兼松(株))に入社後は大阪で建設開発本部に所属し病院建設プロジェクトなどを経験し10数年ばかりをすごしたのち、東京に転勤する際に電子本部に転属しCAD(Computer Aided Design)関係の業務につき、1996年6月の兼松退社・起業と人生を広げていかれました。

FITパシフィック本社 エフ・アイ・ティー・パシフィック(右の写真は本社)を起業した後は業績は右肩上がりで成長し、現在は浅草橋に本社を置き、名古屋営業所(愛知)、つくばテクニカルセンター(茨城)などで事業を展開されておられます。

この会社は何をしてるかって? なかなかうまく説明できないのですが、車両衝突実験用人体ダミー及び荷重計、車両衝突実験用加速度計とかを取り扱って国内最大シェアを有するそうで、ほとんどの自動車メーカーとの取引があるそうです。

この浅草橋ミハマビル4Fにあるエフ・アイ・ティー・パシフィックの社長室で、毎回、名西会関東支部役員会を開催させていただいております。堀支部長はいつもにこにこ微笑んでいて、会議は順調に議論が進み、関東支部総会をどのように盛り上げていくか、同窓生が集う機会をどのように増やしていくかなどの議論を進めています。

みなさまも、ぜひ浅草橋ミハマビルにおいでください。



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